ページ更新日:2018/08/10
初回登録:2018/08/10
![]() | 「ジミー時田」は1936年3月15日満州(現:中国遼寧省遼陽市)生まれ,東京都育ち(2000年3月10日東京都杉並区にて死去=肺炎)。誕生名「時田圭介」で「青山学院大学英米文学科」の学生時代から「マウンテン・プレイボーイズ:下記参照」のリーダーなど、主にカントリー&ウェスタン系シンガー,ギタリストとして活動。1960年代前半の日本を代表するカントリー・ミュージシャンの一人。 |
※1段目:1961年頃(銀座テネシー前) ※2段目:1962年LP=録音/1961年~1962年 ※3段目:1961年前後撮影 ※何れもS氏所有を譲受(一部編集)=上から年代順と推測
メンバー「ジャイアント吉田」は当時「吉田一男」、同じく「いかりや長介」は当時「碇矢長一」。
結成メンバー及び初期メンバー、及び初期バンド名なども詳細不明。また芸能プロ「東京ハワイアンズ」に所属したようですが、所属期間などは不明。
1958年からバック・ヴォーカル,ギター「ジャイアント吉田」、以降スチール・ギター「藤井三雄」、フィドル「宮城久弥」が参加。1961年頃からウッド・ベース「いかりや長介」、同61年にエレキギター,バンジョー「寺内タケシ」が参加。
1960年,1961年の可能性もありますが(メンバー脱退,復帰があれば)、1962年撮影の可能性が高いと思われます。
1961年末から1962年にかけての脱退メンバーとして、「寺内タケシ」は「ブルージーンズ」を結成、続いて「いかりや長介」が「ドリフターズ」に参加。
写真には写っていますが、少し遅れて「ジャイアント吉田」が「ドリフターズ」に参加。またバンジョー,フィドル「飯塚文雄」は当時学生でレコード録音参加はなし。1963年大学卒業後から「ドリフターズ」に参加。
新規(または復帰)メンバーとして、ベース「岩倉忠」、スチールギター,ドブロ「松平直久」が参加。
商業的には全盛時代とされ、1962年だけで5枚のアルバムをリリース。またライヴでは「ジャイアント吉田」、「岩倉忠」、二人がコントを担当していたようです。
ロカビリー人気(ここではロックンロール,ポップスなどの総称として)に押され、また大手芸能プロが実権を握るジャズ喫茶では出演機会を失うなど、徐々にバンド人気は低落。
同じ芸能プロ「東京ハワイアンズ」から「尾崎紀世彦」が参加しますが、相変わらずライヴ活動は一部のジャズ喫茶などに限定され、1966年末(公式には1967年?)にバンドを解散。
米国からカナダへ渡米しますが、カナダで体調を崩し帰国(帰国年不明)。
以降はソロ及び期間限定のバンド再結成などの活動があります。
![]() | ジャズ喫茶「テネシー」は1953年9月29日東京都中央区西銀座6-5(現:銀座6-5)で開店。正式名称は「コーヒーショップ・テネシー」、午前11時から午後11時まで営業(ライヴ=昼夜2部制)という形式で ... ページ更新日:2018/08/09 |